原爆投下と核廃絶について

オバマ米大統領は伊勢志摩サミット終了後、広島を訪れて原爆資料館を見学し原爆投下の謝罪は含まない、核兵器の無い世界平和に向けて演説した。
ここ数週間、この米大統領の広島訪問の報道に接して、気分がいらついてテレビのスイッチを切ったりしていた。イライラの原因はこの件に関する私の見解とこの訪問が世界平和への一歩前進みたいに捉える世間のムードとの乖離にあったと思う。
普通、政治や歴史にかかわる事柄は、報道や書物からの情報しか無い部外者には判断つきかねるのが通常なのだが、原爆投下と核武装(つまり抑止力)に関しては割合にはっきりしているのではないかと思われる。

原爆投下については、無差別民間人大量殺戮の戦争犯罪であることは明白だ。普通、事実の認定が戦争当事国は自国有利に主張するので食い違ってしまい難しいのだが、原爆投下については米国も投下を認めており明確である。事実ははっきりしているのに謝罪しない。
何故か。戦争を早期に終結させるためだったと言う。気持ちは分かるがこの理屈を認めたら大変な事になる。戦争は軍人同士の殺し合いは認めても民間人の殺戮は認めていないはずだ。戦争を早く終結させて自軍の損失を軽減したいからといって民間人を無差別に殺戮して良いわけがない。大戦末期は日本各地に空襲があり東京大空襲など死者数万人に上るのだから広島、長崎の原爆投下もその延長線上にあったのかもしれないが、戦争犯罪の無差別民間人大量殺戮であることは明白だ。
また、米国の退役軍人会の力が強く謝罪を認めないのだと言う。こんな愚にもつかない言い訳をして米国は恥ずかしくないのだろうか。

原爆投下について日本側の、謝罪などいらない、来てくれるだけで嬉しい、それが核なき世界平和につながるなど一辺倒のお祭りムードはいかがなものか。原爆投下の地獄絵のもとで亡くなった無垢の人々に対して、今日の平和のもとに生きる我々が軽々に「謝罪なんていいですよ」と言って良いのだろうか。
私自身としては、被ばくした親族もいないし、特別の怨念は無いし、恨みの連鎖を続けるべきではないと思うが、犠牲者の無念を簡単に捨て去ってはいけないと思う。日本と米国は70年前には敵国として戦ったのだが、私の生きる戦後70年は友好関係を深めてお互いの理解も格段に進んだと思われる。真の友好関係に進むには原爆投下についての謝罪はあった方が良いと思う。謝罪を迫るのは日本流ではない。自発的に誤ってほしい。

核兵器の無い世界平和について、この種の話にはいつも違和感を覚える。
簡単に言えば、悪人が1人でもいれば、この悪人を改心させて悪人のいない世界にするか、悪人に備えてピストルを携帯しなければ平和な世界は保持できない。悪人もピストルを持っている事を知れば襲ってこない。これが抑止力だ。このピストルを極大化したものが核兵器だ。だから、侵略的な悪い国が世界に存在しなければ、核兵器の無い世界は有り得るが、間近に中国や北朝鮮の脅威が存在する今日、そのような状況を私は想像できない。人間は宗教など考え方が違うだけで相手を悪人と決めつけて殺してしまう。座して死を待つわけにはいかないのだから、自国からは攻撃せずにきちんと核抑止力を備えるしか自国の平和を守る手段は無いと思われる。
オバマ大統領もノーベル平和賞をもらった核廃絶演説と今回の広島訪問以外に何もできなかった。

力の均衡によって平和を維持するしかないのだから、核廃絶は絵空事であって、現実的には漠然とした話だが、世界平和の雰囲気を醸成して、「お互いに核を減らそうよ」という核軍縮を進めるしかないだろう。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック